最終更新日:2025年01月16日
こんにちは、**もっち**と申します。50代になり、ライティングの経験もそれなりに積んできました。これまで多角的な視点でさまざまな分野の記事を執筆してきましたが、今回は昭和の笑いを語るうえで欠かせない**コント55号**について、しっかりまとめてみます。
- あだ名:もっち
- 趣味:テレビドラマ鑑賞、旅行、パン作り
お茶の間を沸かせた昭和の伝説的コンビ・コント55号。鋭いツッコミで瞬時に笑いを生み出す**萩本欽一(欽ちゃん)**と、とぼけたキャラクターで愛された**坂上二郎(二郎さん)**。彼らが挑んだ舞台やテレビの世界、そして現在の萩本欽一さんの様子について、じっくりとひも解いていきましょう。
コント55号とは?
コント55号は、昭和40年代を中心に人気の絶頂を極めた伝説的な**お笑いコンビ**です。メンバーは、以下の2人。
- **萩本欽一(欽ちゃん)**:1941年5月7日、東京都台東区生まれ。
- **坂上二郎(二郎さん)**:1934年4月16日、鹿児島県鹿児島市生まれ。
特に欽ちゃんの「なんでそうなるの!」と二郎さんの「飛びます!飛びます!」は昭和を代表するギャグとして記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。体を張った動きのあるコントと、**テンポの速い笑い**が特徴的で、当時のお茶の間を熱狂させました。
萩本欽一の人物像と経歴
浅草東洋劇場から始まった芸の道
欽ちゃんは、高校卒業後に浅草の東洋劇場に入り、コメディアンとしての道を歩み始めました。舞台でのコントや**アドリブ**を武器に、観客との距離を一気に縮める天性の才能を発揮。計算ではなく、その場の空気を一瞬で読み取り笑いを生み出す術は、当時のお笑い界に**革命**をもたらしたといっても過言ではありません。
人見知りからの大逆転
幼い頃は恥ずかしがり屋だったという欽ちゃん。貧しい家庭環境の中で「絶対にお金持ちになる!」と決意し、その後の芸能界への飛躍へつなげていったそうです。彼の独創的なコントスタイルや**自由奔放なアドリブ**は、常に新しい笑いを追求し続ける姿勢から生まれました。
司会・タレントの育成など多彩な活動
欽ちゃんはコメディアンだけでなく、テレビの司会や俳優、さらには社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」のオーナーを務めるなど、多岐にわたって活躍しています。タレントや芸人の**後進育成**にも力を注ぎ、多くの芸能人を世に送り出してきました。
坂上二郎の人物像と経歴
温厚なキャラクターが魅力
坂上二郎さんは、鹿児島県出身のコメディアン・俳優。欽ちゃんの鋭いツッコミに対して、時にとぼけてみせる**緩急のあるリアクション**が観客の笑いを誘いました。穏やかでやさしい人柄がにじみ出る、唯一無二の存在感でしたよね。
ドラマ・映画での活躍
二郎さんは、刑事ドラマ『夜明けの刑事』や『明日の刑事』などにも出演しており、コミカルな刑事役としてお茶の間を楽しませてくれました。さらに、撮影が終わったらスタジオを即座に後にするなど、**仕事熱心**な一面も有名です。研ナオコさんが「二郎さん、メイクを落とすより先にもう家に着いてるのでは?」と冗談めかして話していたというエピソードも微笑ましいですね。
コント55号の結成秘話
コント55号が誕生したのは1966年頃。欽ちゃんが浅草松竹演芸場に売り込むため「机」という一人コントを準備していた矢先、偶然にも二郎さんから電話がかかってきたのがきっかけだそうです。
実際に『机』をステージで披露してみると、最初の数日はウケがいまひとつ。しかし三日目に役を入れ替えてみたところ、大いに好評を博し、五日目には支配人から「**コント55号**」と命名され、正式にコンビとして認められました。
代表作と多彩なコントスタイル
コント55号は、テレビ番組や映画でも引っ張りだこでした。代表的な番組・作品を挙げてみましょう。
- 『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ系)
- 『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』(日本テレビ系)
- 『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ系)
- 『ぴったし カン・カン』(TBS系)
- 映画『コント55号と水前寺清子の神様の恋人』
- 映画『コント55号 世紀の大弱点』
- 映画『コント55号 宇宙大冒険』
- 映画『コント55号とミーコの絶体絶命』
いずれもテンポの速い**スラップスティック・コメディ**を展開し、当時の子どもたちから大人まで、多くの視聴者がテレビに釘付けになりました。
コント55号の魅力をもっと知りたいなら 昭和のコメディの息づかいを学べる一冊です。 amazonで見る |
人気絶頂期のエピソード
1960年代後半から1970年代前半にかけて、コント55号は人気のピークを迎えました。ところが当時はビデオテープの**上書き保存**が当たり前だったため、彼らのコント映像が多く残っていないのは残念なところです。
- **アドリブ満載のコント**:欽ちゃんは、台本にしばられず毎回新たな笑いを生み出していました。
- **体を張った芸**:セットを壊すほどの激しい動きで観客に強烈なインパクトを与えました。
- **社会風刺**:当時の社会情勢をとりこみ、大人の視聴者からも支持を集めました。
こうした次々と生まれる斬新な笑いが、子どもにも大人にも「目が離せないコント55号」として愛され続けた要因のひとつと言えるでしょう。
懐かしの映像を手に入れたいなら 当時のコントや舞台裏に触れられる貴重なDVDです。 amazonで見る |
人気低迷の理由
1970年代後半に差しかかると、コント55号の勢いは次第に落ち着きを見せ始めます。その背景として、次のような理由が挙げられます。
- **マンネリ化**:新しい笑いを生み出すコント55号にとって、同じことを繰り返すのは苦手だったとも言われます。視聴者側の「毎週同じようなパターンを見たい」という期待とのズレが生じた可能性があります。
- **新しい笑いの台頭**:ドリフターズやひょうきん族などの新スタイルの登場により、コント55号がやや古いイメージを持たれたという見方もあります。
- **コンビ仲の悪化**:欽ちゃんは常に新しいことに挑戦したいタイプ、二郎さんは安定したパターンを重視するタイプ。その考え方の違いが少しずつ溝を生んだのではないかと語られることもあります。
現在の萩本欽一さん
欽ちゃんは現在でも芸能界の第一線を走り続けています。テレビ出演こそ頻度が減ったものの、舞台や講演会に精力的に取り組み、社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ」のオーナーとしても活躍中です。
高齢でも意欲は衰えず
2023年には「欽ちゃん82歳の挑戦〜ちょっとだけ動くライブ〜」を開催。年齢を感じさせないパワフルさで多くのファンを魅了しました。ただし、テレビでのトークなどで時折“老い”を匂わせる発言があり、視聴者から**心配の声**が上がる場面もあります。
YouTube「欽ちゃんネル」での新たな挑戦
欽ちゃんはYouTubeチャンネル「欽ちゃんネル」を開設し、「運」「夢」「笑」「体」の4つの扉をテーマに配信を続けています。これはまさに、彼が大切にしてきた人生観を多くの人たちに届けたいという想いの表れでしょう。
芸人という生き方を深く知るなら お笑いの歴史と芸人の人生観を学べる良書です。 amazonで見る |
二人の言葉から見える哲学
欽ちゃんは「笑いは人を幸せにするためのもの」という信念を持っています。自身の欠点すら笑いに変える姿勢から生まれる「マヌケであることは、最高の贈り物」という言葉には、芸人の**人間肯定**の精神が詰まっているように思えます。
一方、二郎さんは生前、「欽ちゃんがいなければ今の自分はいなかった」と語っており、「笑いは人と人をつなぐ架け橋」という言葉も残しています。その温かな人柄が、欽ちゃんとの絶妙なコンビネーションを支え続けたのでしょう。
まとめ:時代を超えて愛されるコント55号
コント55号は、斬新な笑いと**テンポの良さ**で昭和を駆け抜け、その後のお笑いシーンを大きく変えてしまうほどの影響力を持ちました。欽ちゃんは現在も意欲的に活動し、二郎さんが生前に語った「笑いは人と人をつなぐ架け橋」という言葉は、多くの人々の心に温かく響き続けています。
これからも、**コント55号の足跡**は日本のお笑い史に輝き続けるでしょうし、欽ちゃんの独創的な笑いは次世代へと受け継がれていくはずです。昭和の名コントに触れてみたい方は、ぜひ彼らの映像や書籍にふれてみてください。新たな“笑いの世界”が広がるかもしれませんよ。